「伴侶」

 朝目が覚めると、あいつがいなかった。今日も一緒に寝ていたはずなのに。あれ?と思い、家中を見て回る。いない。
 男は今年50になる。こんなことは初めてだった。愛想をつかして出て行ったのだろうか。書置きでも残してはいないかと探してみたが、それもなかった。
 知らず怒らせるようなことをしたのだろうかと、寝る前の記憶を探る。特にいつもと変わったことはなかったはずだ。たぶん。
 でしゃばることはせず、だからといって、人の足をひっぱるようなやつでもなかった。俺が何をしても口をださずに、最後まで付き合ってくれた。どんなときでも、何があっても、一番そばに居てくれたのは、二親でも、親友でもない、あいつだった。それが当たり前で、そうだった。居なくなる日が来るなんて、考えたこともなかった。もしこのままずっと帰ってこなかったら…そこまで考えて、ぞっと背筋に寒いものが走った。普段どおりの生活をおくれる自信は、ない。
 ―いかん、いかん。考えに浸っている場合ではないぞ。
衣服も金も、無くなっているものは何もない。きっとまだ、近くに居る。
今日が休日でよかったと思いながら、(例え平日でも、男は会社を休んででも探しただろうが)着替えもせずに、かけてあった薄いジャンパーを羽織ると、サンダルをつっかけ外へ出た。春が近い。早朝の風は、まだ冷たい。
 当ては無い、だが男は駆けた。年甲斐もなく、息を切らせて、駆けた。
 思えば―…男は思った。思えば、俺はあいつに今まで何かしてあげたことが、あっただろうか。これから何か、してあげられることは、あるのだろうか。不器用で、上手くやれる自信はないけれど、何をしていいのかなんて分からないけれど、それでも今度からは、今度は、今度…―

 いた。

 見つけた。空き地の、積み上げられてずいぶん経った、ツタのからまるレンガにそっと、腰掛けていた。
「ここに居たのか。」
 空き地の、萌え始めた淡い草を踏み、男は近づいた。
「なんと言ったら………探したよ、よかった。お前が居てくれなくては、俺は、何もできないよ。買い物だって、遊びだって、それに会社にだって、落ち着いて出かけられないよ。」
 そこまで言って、男ははっとした。もしかしたら、なんとなく気晴らしに外へ出ただけだったのかもしれない。たまには束縛からはずれて、自由になりたいときだってあるだろう。俺だって、そうだ。誰だってきっと、そうだ。
「すまん。そうだな、たまにはそんなときがあるよな…」
 男の言葉を、黙って聴いているようだった。勢い余って出てきたはいいが、行くあてもなく、また、戻るに戻れなかったのかもしれない。
 男が右手をそっと差し出した。相手もそっと、右手を差し出す。
「戻ってきて、くれるか…」

 朝、ごみを捨てようと外へ出た主婦は、ゴミだし場に行こうと通りがかった空き地の前で、おかしな男を見た。男は空き地に詰まれたレンガの前にかがみ、自らの影に、手を当てていた。

 こうして、男にまた、いつもの日々が戻った。全く奇異なこともあるもんだ。が、ともかく影が戻ってきてくれてよかった。どんな評判がたつやら。影なしで人前になんて、出れるわけがない。


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